太宰治と檀一雄のバディ探偵ミステリー
第一章

戦後最大の怪事件

主要人物

第三話 再訪①

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檀 一雄

戸が叩かれたのは、いつもより少し早い時刻だった。

まだ朝というには少しばかり重たく、昨晩の酒気が喉の奥に残っている頃だった。

最初は風かと思ったが、すぐに、それが人の手によるものだと分かった。

無性に、誰かが来るということが不思議に感じられた。

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矢田喜美雄

「失礼します! 檀さん、いらっしゃいますか」

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檀 一雄

通る声だった。知らない声だが、なぜか妙に懐かしさを感じた。

挿絵

響きだけで記憶の埃がざわめくような感覚がある。

「誰だか知らんが、ドアは開いてる。用があるなら、上がってくれ」

数秒の間があり、引き戸の軋む音がした。

玄関から入ってきた男が、立ち止まり、鼻をすする音を立てた。

部屋に染みついた煙草と酒のにおいが、一気に迎え入れた来訪者を包む。俺にはもうわからなくなっているが、外の人間にとっては相当なものだろう。

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矢田喜美雄

「失礼致します……うっ

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檀 一雄

「悪いな。酒と煙草の匂いだ。慣れてない人にはきついだろう」

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矢田喜美雄

「いえ……ちょっと、窓を開けさせてもらいますね」

挿絵
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檀 一雄

ガラガラ、と窓を開ける音がした。春とはいえまだ肌寒い風が入ってくる。

だが、澱んでいた空気が外気と入れ替わると、わずかに脳が冴えるような気がした。

その顔を見て、思い出した。目の奥に、どこか昔の残像が焼きついていた。

「ん、矢田……矢田じゃないか。ずいぶん久しぶりだな」

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矢田喜美雄

「はい。戦前以来ですね。……檀さんのこと、ずっと気になっていました。戦地から戻られたとは聞いていたんですが……」

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檀 一雄

彼は少し背が伸びたように見えた。姿勢も言葉も落ち着き、青年というより“男”になっていた。

「陸上は、もうやってないのか?ベルリンオリンピックまで出たろう」

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矢田喜美雄

「いえ、今はまったく別の道を。早稲田から朝日新聞に入りました」

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檀 一雄

新聞記者か。

戦争が終わって、大学に戻り、新聞社に入る──矢田のような生き方が、きっとこの国の“新しい姿”なのだろう。

真っ当で、整っていて、
だが俺にはもう眩しすぎる道だった。

「新聞記者か。大したもんだな。……それで、今日はどうした?」

挿絵

彼は、少しだけ間を置いてから言った。声の奥に、慎重さと覚悟が同居していた。

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矢田喜美雄

「最近、檀さんのお名前をあまり見かけなくて……どうされているのか、気になっていました。
僕にとっては、檀さんは……昔からずっと、特別な作家なんです

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檀 一雄

それは唐突すぎて、むしろ素直な言葉だと感じた。
照れくさくもあり、どこかで、少し嬉しかった。言葉が、過去と現在を一瞬で繋ぐことがある。文学がそうであったように。

「そりゃまた、ずいぶん唐突だな。……学生時代に、何かあったっけか?」

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矢田喜美雄

「はい。覚えていらっしゃるか分かりませんが……“赤い洋墨(インク)の恋文事件”というのがあったのを覚えてますか?」

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檀 一雄

赤いインク。──ああ、あれか。懐かしい名前を出す。

くだらなく、青く、どこか甘ったるく、そして本気だった、あの騒動。

挿絵
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矢田喜美雄

「僕が巻き込まれて、困っていたとき……檀さんと太宰さんが助けてくれました。
あの時のことが、僕にとっては忘れられない出来事なんです」

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檀 一雄

思い出した。確かに、あった。

探偵ごっこなどというには青くさすぎたが、俺たちはあの頃、それしかできなかった。

太宰も妙に乗り気で──くだらないと言いつつ、一番楽しそうだった。

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矢田喜美雄

「……今となっては、小さなトラブルでしたけど、当時の僕には大問題で。檀さんはそんな僕に真剣に向き合ってくれて……本当に救われた気がしたんです。“言葉で人を助けられるんだ”って、はじめて思いました。……それで作家ではないんですけど、いまは新聞記者として働いています」

矢田の声が、妙に真っ直ぐで、それが胸に刺さる。昔、そういう顔を何度も見てきた気がする。

文学がまだ、何かを動かせると信じていた頃の顔だった。

挿絵
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檀 一雄

「そうか……。しかし、新聞記者も楽じゃないだろう。書きたいことも書けない時代じゃないか」

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矢田喜美雄

「ええ、GHQから圧力がかかることもあります」

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檀 一雄

「まぁ、戦前戦中も似たようなもんだった。大本営様が、GHQ様に変わっただけ」

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矢田喜美雄

「はは、まさにその通りです。で……檀さんの方は、最近は?」

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檀 一雄

その問いに、俺は少し笑って、酒瓶を手に取った。手の震えは以前よりはましだったが、それでも注ぎ口が揺れた。酒を注ぐ音が、静かな空気の中にひとつのリズムを与える。

「ああ、書けない。何も出てこない。戦争の記憶と、亡くなったりつ子の面影に、ただ生きながらえているだけだよ。……まあ、これが唯一の命綱だ」

グラスを掲げた。

「再会に乾杯しよう」

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矢田喜美雄

「いただきます」

ここまでのおさらい

  • 矢田喜美雄サムネイル

    矢田喜美雄

    やだきみお

    かつての恩師・檀のもとを訪ね、戦前に檀に救われた想いを打ち明ける。

  • 檀 一雄サムネイル

    檀 一雄

    だん かずお

    矢田の訪問を受け、戦前の赤いインク事件をふと懐かしく思い出した。

ここまでの用語解説

  • ベルリンオリンピックサムネイル
    ベルリンオリンピック

    ベルリンオリンピックは、1936年にドイツ・ベルリンで開催された第11回夏季オリンピックです。ナチス政権下で行われ、国家の威信を誇示するため、巨大な競技場や大規模な演出が用意されるなど、強い政治的意図を伴った大会でした。一方で、競技そのものは国境や思想を超える力を持ち、世界中の注目を集めました。日本からも多くの選手が出場し、本作に登場する矢田喜美雄は、陸上競技・走高跳の日本代表として出場しています。矢田はこの大会で5位入賞を果たし、国際舞台の緊張と理想の両方を体験しました。この経験は、後年の彼の視野や正義感に大きな影響を与えたと考えられます。