戦後最大の怪事件
主要人物
檀 一雄
矢田喜美雄
第四話 再訪②
檀 一雄
「煙草、あるか?」
矢田喜美雄
「どうぞ」
檀 一雄
マッチの火を擦り、煙を肺に入れる。喉の奥に広がる熱が血流に勢いを与えた。
「ふぅ……煙が肺に入ると、生きてる実感がある」
矢田は、それを見て、何かを堪えるように言った。
矢田喜美雄
「……心が痛みます」
檀 一雄
「ん?」
矢田喜美雄
「尊敬している人が、こんなにも傷ついているのが……机の上の原稿用紙も、あの頃と同じなのに。檀さんの筆が止まっているなんて、あまりにももったいない」
檀 一雄
「才能なんて言葉は、太宰にでも言ってくれ。まあ、言われても、あいつは無表情で会釈するくらいだろうがな」
矢田喜美雄
「本当の天才って、そういうものなんでしょうか」
檀 一雄
「さあな……俺は、凡人だよ」
矢田喜美雄
「もう一度、“桜桃探偵舎”をやってみませんか?」
檀 一雄
「馬鹿なことを言うなよ。あんなものは学生の戯れだ。……それに、“あれ”は太宰がいて、はじめて成り立っていたんだ」
矢田喜美雄
「でも今、追っている事件は、本当に手に負えないんです。
助けてほしい。もう一度だけでも」
檀 一雄
彼の声には切実さがあった。だが俺の中の何かは、まだ眠っていた。いや、眠ったふりをしていた。
矢田喜美雄
「……下山事件、ご存じですか?」
檀 一雄
「新聞で見たような……詳しくは知らん」
矢田喜美雄
「国鉄総裁・下山定則が、列車に轢かれて亡くなりました。自殺か、他殺か……はっきりしない」
檀 一雄
「そんなはずはない。死に方を見れば、わかるだろう」
矢田は、背筋を伸ばし、どこか震えるような声で語り始めた。
矢田喜美雄
「それが、わからないんです。下山総裁は、七月五日の朝、急に三越に立ち寄ったんです。予定にはなかったはずなんですが……彼にとっては、こうした寄り道は日常茶飯事だった。運転手も気に留めずに……それきり、姿が見えなくなった」
檀 一雄
「人間が、煙みたいに消えるなんてことはない。……どこかで、誰かが、見ていたはずだ」
矢田喜美雄
「翌七月六日──午前一時。常磐線と東武伊勢崎線が交差する高架下で、砕けた人間の遺体が見つかりました。
轢死体。
線路上に九十メートル以上にわたって、散乱していた。持ち物から本人と断定されました」
檀 一雄
「じゃあ……高架から、飛んだんだな。自分の足で登って、自分の意志で落ちた。違うか?」
矢田喜美雄
「そうとも言えません。下山が姿を消す前日、鉄道弘済会に“殺害予告”の電話がかかっていたんです」
檀 一雄
俺は短く鼻を鳴らした。
「たちの悪い冗談だ。そんなもん、真に受けてたら新聞がいくつあっても足りん」
矢田喜美雄
「──同じ日、国鉄労働組合の本部にも、そして下山氏の自宅にも、別々に“奇妙な電話”がかかっていました。これだけ重なるのは偶然じゃありません。……誰かが、仕掛けてた。そう考える方が自然です」
檀 一雄
「大袈裟すぎやしないか。政治にかぶれた学生じゃあるまいし……事件に意味を与えすぎると、かえって見失うぞ。人の死はな、ただの“死”ってこともある」
それでも、矢田は言った。押し出すように、言葉をこちらへ差し出してきた。
矢田喜美雄
「檀さん。お願いです。あなたの力が必要なんです」
彼の声が震えた。
檀 一雄
「力もなにも……今の俺には、何もできん」
矢田喜美雄
「でも、檀一雄の“目”が見抜くことがあるはずです。これはただの事件じゃありません。国家の裏が絡んでる。自殺に見せかけた、他殺だと、俺は思ってます」
檀 一雄
「警察に任せればいいだろう」
矢田喜美雄
「警察の動きも妙です。おそらく、GHQが裏で何かしてる。一課は"自殺"、二課は"他殺"で動いていて、現場は混乱してます」
檀 一雄
「……GHQか。あいつらがいる限り、日本はまだ、他人の国だな」
矢田喜美雄
「吉田茂内閣になってから、日本はどんどん混乱しています。祖国のために、真実を掘り起こしてくれませんか。“ペンは剣よりも強し” ──檀さんなら、書ける。切り込める」
檀 一雄
「今の俺に、ペンは持てないよ。すまん」
矢田喜美雄
「……檀さん」
檀 一雄
「久しぶりに、人と呑んで、酔いが回ったよ。……今日は眠れそうだ」
矢田喜美雄
「これは、事件の概要です。……もし、気が向いたら、目を通してください」
檀 一雄
「……ああ。……今は眠らせてくれ。体が……溶けそうなんだ」
矢田喜美雄
「今日はこれまでで。また来ますので……」
ここまでのおさらい
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矢田喜美雄
やだきみお下山事件の不審な点を檀に次々と語り、桜桃探偵舎の復活を切実に訴えた。
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檀 一雄
だん かずお矢田の依頼に「今の俺には何もできん」と首を縦に振ることができなかった。
ここまでの用語解説
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たばこ煙草
By Kamakura - Own work, CC BY-SA 4.0
戦前から戦後にかけての日本では、煙草は極めて身近な嗜好品であり、生活の一部でした。国家専売制度のもとで流通していましたが、戦時中は物資不足により配給制となり、品質の低下や代用品の使用も広がりました。戦後四年を迎えてもなお供給は不安定で、闇市で煙草を手に入れることも珍しくありませんでした。太宰治が愛用していたことでよく知られているのが、ゴールデンバットです。安価で癖の強い無骨な煙草で、戦前から流通しており、文化人や労働者にも広く吸われていました。太宰の生活や作品に見られる退廃性や庶民性と重なり、この銘柄は彼の人物像を象徴する小道具として語られることが多い存在です。煙草は当時、思考をつなぎとめ、孤独や不安を紛らわせるための、ささやかな支えでもありました。
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みつこし三越
当時の銀座三越は、戦後の混乱の中で「秩序」と「日常」を象徴する特別な場所でした。空襲で大きな被害を受けながらも、三越は比較的早く営業を再開し、百貨店としての格式と静けさを保っていました。店内には整然と商品が並び、客たちは背筋を伸ばし、戦前の作法をなぞるように買い物をしていました。その三越を取り囲む銀座の街は、対照的に雑多で猥雑な空気をまとっていました。闇市や露店、進駐軍兵士、記者、文化人が行き交い、英語看板やネオンが混在する無秩序な空間でした。銀座三越は、その混乱の只中に置かれた「仮初めの正常さ」として、戦後日本の不安定な現実を映し出していたのです。
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じょうばんせんととうぶいせさきせん常磐線と東武伊勢崎線
当時の東京の交通は、戦争の影響を色濃く残した不安定な状態にありました。鉄道は復旧が進められていたものの、車両や設備は老朽化し、ダイヤの乱れや事故も少なくありませんでした。常磐線は東京と東北方面を結ぶ重要路線で、復員兵や労働者、物資輸送が集中していました。一方、東武伊勢崎線は下町と埼玉方面を結ぶ生活路線として、多くの通勤客や買い出し客を運んでいました。両線が交差・近接する地域は人と貨物が密集し、夜間は照明も乏しく、事故や事件が起きても不思議ではない環境でした。鉄道は復興の象徴であると同時に、社会の歪みが露出する場所でもあったのです。
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こくてつろうどうくみあい国鉄労働組合
国鉄労働組合とは、国有鉄道で働く職員たちが、自分たちの雇用や生活を守るために結成した組織です。戦後の国鉄は赤字が深刻で、GHQの指示による合理化政策のもと、約10万人規模の大量解雇が計画されました。これに強く反発したのが労働組合です。組合は解雇反対や労働条件の改善を訴え、ストライキや抗議行動を行いましたが、冷戦の始まりとともに「共産主義的」と警戒され、政府や占領軍から厳しい監視を受けました。そのため国鉄労組は、生活防衛の組織であると同時に、政治的緊張の渦中に置かれた存在でもあったのです。
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よしだしげるないかく吉田茂内閣
吉田茂内閣は、戦後の日本を占領下で再建するために発足した政権です。首相である吉田茂は、GHQと協調しながら経済復興を最優先し、財政再建や合理化政策を強力に進めました。しかしその結果、国鉄をはじめとする国営企業で大量解雇が行われ、失業や労働争議が激化しました。さらに冷戦の始まりにより、共産主義への警戒が強まり、言論や思想への圧力も増していきます。生活不安、政治不信、占領統治への反発が重なり、日本社会は不満と緊張を抱えたまま混乱していたのです。
