太宰治と檀一雄のバディ探偵ミステリー
第二章

中原中也と赤い手紙の謎

主要人物

第三話 赤い洋墨の手紙①

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檀 一雄

乱闘の翌朝の空気は、妙に重たかった。
昨夜の酔いがまだ抜け切らない。眠気と現実のあいだに浮かびながら、額を掻いた。

「ふああ……
こんなとこに擦り傷……」

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うっすらと赤くなった腕を見つめながら、いつものように昨夜の記憶をたどる。

しかし後悔が立つのを避け、回想もほどほどにした。

すると突然、玄関の向こうから声が飛び込んできた。

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矢田喜美雄

「失礼します! 朝からすみません、 相談がありまして!」

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檀 一雄

勢いのある声とともに、ひとりの若者が駆け込んできた。詰襟の学生服。まっすぐな目。背中に朝日を引き連れている。

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「朝から元気だな、君は。……で?」

そう言うと、彼は慌てて名乗った。

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矢田喜美雄

「早稲田の矢田喜美雄と申します。いつも檀さんの作品を拝読しています!」

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檀 一雄

予想外に丁寧な自己紹介に、思わず笑みがこぼれた。

「あら、どうも。で、相談って?」

矢田は少し緊張をにじませながらも、真剣な顔で言った。

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矢田喜美雄

「帝大に聴講で通っている女性の友人がいるのですが……図書館で、赤インクで書いた手紙を置き忘れてしまって。恋文です」

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檀 一雄

あまりに場違いで切実な相談に、つい吹き出しそうになった。
けれど彼の顔を見ると、笑うわけにもいかなかった。——そんな風に真面目だった。

昼下がり、太宰が一杯の酒をすすりながら言った。

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太宰 治

「……それで、頼られたわけか。
まったく、朝から妙な相談を受けるな、檀」

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檀 一雄

俺は背もたれに寄りかかり、首を軽く振った。

「まあ、困ってたんだから仕方ないだろ。しかし……昨日の中原の酒癖、酷かった」

太宰は肩をすくめて笑った。

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太宰 治

「だから苦手なんだよ。あれで良い詩を書くから、余計に腹が立つ。……まあでも、彼の興味の対象がきみにも移ったようだから、良かったけどね」

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檀 一雄

「どういう意味だ?」

そう尋ねると、太宰はやれやれと首を傾げて酒をすする。

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太宰 治

「で、檀。その若者のくだらない探偵ごっこに付き合うつもりなのか? 僕らは文学という人生の崖に立つ切実な作家だよ」

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檀 一雄

「若者の将来の一大事だぞ。恋文一通でも、人生が左右される」

太宰は苦笑しながら、さらりと言った。

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太宰 治

「まぁ、きみと違って、仏文科の僕はもう作家になるしか生きる道はないからね。プロレタリア文学にかぶれて、警察にも目をつけられてるし」

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檀 一雄

「三度もぶち込まれてたもんな」

俺がからかうように言うと、太宰はどこか愉しげな目をしていた。

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太宰 治

「もうこりごりだよ。知らないうちに、家柄への反発みたいなのがあったのかもしれないな……
地主の息子は純粋な革命家にはなれないのさ。小林多喜二のようにはね」

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檀 一雄

「それより、矢田の件だが……手紙を見つけたら報酬をくれるらしい」

そう言うと、太宰は酒をすする手を止め、急いでこちらに向き直した。

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太宰 治

「早速、矢田と依頼主を帝大図書館に召集しよう、檀くん。恋文が盗まれたなんて、一大事じゃないか」

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檀 一雄

「さっき、くだらない探偵ごっことかなんとか言ってなかったか? 太宰」

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太宰 治

「人生の崖に立つ人間たちを見捨ててはおけない。と同時に、健気な苦悩を取材するのも作家の仕事だ」

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檀 一雄

「調子の良いことを……」

借金まみれの太宰が、報酬という言葉を聞いて動いたことは明白だった。

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太宰 治

「事件と呼ぶには小さいが、一応“謎”はあるからね。私立探偵とやらを気取ってみるか」

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檀 一雄

「そうだ、……確か最近、英国の探偵小説なんかを読んでるんだろ?」

太宰はうれしそうに頷いた。

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太宰 治

「うん。アーサー・コナン・ドイルの“シャロック・ホオムズ”。名探偵と、助手ワトソン博士——これがいいコンビなのさ」

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檀 一雄

「お前がホオムズで、俺がワトソンか。
——まあ、悪くないな」

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太宰 治

「じゃあ、僕たちの探偵稼業にも名前をつけよう。そうだな“桜桃探偵舎”ってのはどうだ? 春らしくて、ちょっと哀しくて、甘い」

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檀 一雄

「桜桃探偵舎……
太宰らしいな。気に入った」

そう答えながら、胸の奥にわずかに熱いものが灯るのを感じた。

どこか絵空事のように思っていた探偵ごっこが、なぜか少しだけ

——少しだけ、楽しみに思えてきたのだった。

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太宰 治

「あ、でも……あの酒乱の中也だけは関わらせないよう気を付けておくれよ。あいつがいたら、予定が狂うからね」

ここまでのおさらい

  • 矢田喜美雄サムネイル

    矢田喜美雄

    やだきみお

    早朝から檀の元へ駆け込み、友人の女性が図書館に置き忘れた「赤いインクの恋文」を探してほしいと相談した。

  • 檀 一雄サムネイル

    檀 一雄

    だん かずお

    矢田から手紙の捜索を相談され、太宰の提案で「桜桃探偵舎」を始めることとなった。

  • 太宰 治サムネイル

    太宰 治

    だざいおさむ

    矢田の相談を面白がり、檀に「桜桃探偵舎」を始めようと持ちかけた。

ここまでの用語解説

  • 地主の息子は純粋な革命家にはなれないのさ。小林多喜二のようにはねサムネイル
    じぬしのむすこはじゅんすいなかくめいかにはなれないのさ。こばやしたきじのようにはね地主の息子は純粋な革命家にはなれないのさ。小林多喜二のようにはね

    太宰は1930年代前半、東京帝大在学中にプロレタリア文学や左翼思想に接近し、実際に検挙・拘留も経験しました。しかし青森の地主の家に生まれ、兄からの仕送りで学ぶ自分は、貧困と弾圧の只中で闘った作家にはなりきれない——その自覚が常にありました。1933年、拷問の末に獄死した小林多喜二は、太宰にとって「本物」の象徴でした。だからこの言葉は、革命への皮肉ではなく、自分は観念では近づけても、身体ごと賭ける場所には立てないという冷静な自己分析なのです。軽口の裏に滲むのは、政治から文学へと軸足を移す決断と、その痛みでした。

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    "おうとうたんていしゃ"“桜桃探偵舎”

    “桜桃”は、太宰治にとって単なる果物名ではありません。晩年の随筆・短編「桜桃」に象徴されるように、桜桃は甘さと酸っぱさ、享楽と罪悪感、家族への愛と自己嫌悪が同居する記号でした。子どもに与える桜桃を前に、大人としての責任と無力さを同時に噛みしめる——その感情の振幅こそが太宰的です。

    “桜桃探偵舎”という命名も同様で、春の可憐さの裏にある痛みや、事件を解く軽やかさの背後に潜む人間の弱さを引き受ける覚悟が込められています。甘くて哀しい名は、真実を暴くより先に、人間の脆さを抱きしめる探偵でありたいという太宰の美学の表明なのです。