太宰治。戦闘、開始。
「赤い恋文事件」の解決後、檀は戦後のトラウマに悩まされていた。檀の元を訪れた坂口安吾は、再び執筆するよう激励するがーー。
主要人物
太宰 治
声/岡本信彦
檀 一雄
坂口安吾
第一話 坂口安吾
檀 一雄
日が暮れかけた頃だった。
机にもたれたまま、ぼんやりと外の気配を聞いていたそのとき——玄関の戸が、乱暴に開かれた。
坂口安吾
「おーい! 檀! 檀一雄! 生きてるかこの野郎!」
檀 一雄
その怒鳴り声に、思わず顔を上げる。
この調子、この声——間違えようがない。
「ん……ああ……安吾か。なんだよ、夜更けに?」
顔を上げると、坂口安吾が立っていた。額に汗を浮かべ、息を荒げている。
坂口安吾
「なんだよじゃねぇよ! 心配して顔出してみりゃ、机に突っ伏して動かねえ。死んでんのかと思って、ひやっとしたぞ!ったく……人騒がせな酔っ払いめ」
檀 一雄
「悪い……あれ? 太宰は——」
ふと気づく。そこにいたはずの太宰の姿が、消えていた。
坂口安吾
「……まだ酒が抜けてないな?」
檀 一雄
安吾がじっと俺の顔を覗き込む。
俺は、頭を押さえながら曖昧に答えた。
「帰ったのかあ……」
坂口安吾
「まあ、いい。……にしても、ひどい部屋だな、
お前。書いてないだろ?」
檀 一雄
「ああ……」
机の上には、白紙の原稿用紙が何枚も重なっていた。何も書けないままの時間が、幾晩も過ぎていた。
安吾は鼻を鳴らして言った。
坂口安吾
「文字に触れろ。筆を執れ。俺たちは作家なんだ。戦争も乗り越えた、文壇の生き残りだろうが」
檀 一雄
俺は、返す言葉もなく煙草に火をつけた。
坂口安吾
「酒もいいが、一人で飲むな。一人酒ってのはな、ろくな記憶を呼び戻さねぇ。飲むなら俺を誘え」
檀 一雄
「坂口安吾らしいな……」
小さく笑うと、安吾は急に明るい声を出した。
坂口安吾
「よし、じゃあ今度はBARルパンだ。
佐藤先生も来てる。ただ酒だぞ、ただ酒!
書かなくても、飲めるぞ! ははっ!」
檀 一雄
笑いながら、俺は頷いた。
「……生き残った戦友か。そうだよな……」
ふと、話題を変えるように口を開いた。
「なあ……安吾。下山事件って、知ってるか?」
その名を出した瞬間、安吾の目がすっと細くなる。
少し間を置いて、低く答えた。
坂口安吾
「突然、なんだよ。知ってるに決まってるだろ。 日本で知らねぇ奴の方が珍しい。……どうした? そんな話、急に」
檀 一雄
「……いや、興味が湧いてな」
坂口安吾
「お前が“興味”って……誰かに頼まれたのか?」
檀 一雄
「……まあな。正式じゃないけど」
その言葉に、安吾は大きなため息をついた。
坂口安吾
「お前、酒と夢でふらついてんのに、あの“下山事件”に首突っ込む気か? 正気か?」
檀 一雄
「わからん。……でも、何かが、動いてしまったんだ。太宰も手伝ってくれる」
俺の言葉を聞いた安吾は、ゆっくりと首を横に振った。
坂口安吾
「……たまには酒抜いて、外の空気でも吸ってこいよ。お前、顔が土色だぞ」
檀 一雄
「……ああ」
坂口安吾
「帰るよ。俺はこれから原稿だ。でもな、檀……生きてて、よかったよ」
そう言い残し、安吾は背中でドアを開け、手を挙げて出ていった。
「……死ぬなよ。書け。——それが、俺たちの復讐だからな」
檀 一雄
しばらくして、背後の布団のあたりから、くぐもった呻き声のようなものが聞こえてきた。
太宰 治
「……うーん、飲みすぎたなあ……」
その声は、まるで夢の続きを語るように、眠りと現実の境界をまたいでいた。
毛布の山がふわりと動き、その隙間から、太宰がぬるりと顔を出した。
ぼんやりと、目の焦点はまだ合っていない。
檀 一雄
「太宰、お前……いたのか。今しがた安吾が来てたんだ。生きてるかどうか心配して、のぞいてくれてな」
俺がそう言うと、太宰は片目を開け、枕に頬を押しつけながら応じた。
太宰 治
「へえ、そうだったのか。……僕は“赤い洋墨の手紙事件”の続きを見てた気がするよ。まあ、夢だったんだろうな」
そう言って、また目を閉じた。けれど、わずかに間を置いて、ふいに声の調子が変わる。夢から覚めた者の顔ではない。むしろ、何かがはじまる前の顔だった。
「——さて、切り替えよう。桜桃探偵舎、最大の難事件……“下山事件”に取り掛かろうじゃないか」
檀 一雄
その声には、妙に澄んだ響きがあった。
軽くて、浮ついていて、それでいて——こちらの胸を確かに押してくる重さ。
俺はゆっくりと立ち上がり、口元に笑みを浮かべた。
「やはり、お前がいると、背中を押される」
太宰は布団を肩まで引き上げながら、悪戯を企てた少年のような目で笑った。
太宰 治
「じゃあまず、現場だ。——檀、その張り詰めた曇り顔をどうにかしろ。その風体じゃ探偵というより、逃げ隠れる犯人みたいだ」
檀 一雄
俺は吹き出して笑った。
「ははっ、言うね。
……よし、行こう」
話一覧
ここまでのおさらい
-
坂口安吾
さかぐちあんご酒に溺れる檀を心配して、「筆を執れ」と厳しく激励した。
-
檀 一雄
だん かずお原稿に向かえず酒に溺れていたが、安吾に下山事件への関心を明かし、その後太宰に背中を押されて本格的な調査へと向かう決意をした。
-
太宰 治
だざいおさむ安吾が帰った後、檀に「最大の難事件に取り掛かろう」と告げて背中を押した。
ここまでの用語解説
-
さかぐちあんご坂口安吾
坂口安吾(1906–1955)は、新潟の名家に生まれ、東洋大学印度哲学科で仏教や哲学を学んだ後に作家となりました。戦後に発表した評論『堕落論』(1946)は、「人間は堕ちてこそ本来の姿を取り戻す」と説き、戦時中の道徳や精神主義を鋭く批判して大きな反響を呼びます。太宰治、織田作之助らとともに、既成の価値観や道徳に縛られない作家群として「無頼派」と呼ばれ、戦後文学を象徴する存在となりました。檀一雄とも交流が深く、戦後の混乱期には住む場所に困った安吾が、檀の上石神井の家に転がり込み、しばらく同居していたという逸話も残っています。酒と議論を好み、鋭い批評精神で戦後日本の人間像を描き続けた作家でした。
-
BARルパン
Araisyohei - 投稿者自身による著作物, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=178863567による
銀座のBARルパンは、1928年(昭和3年)創業の老舗バーで、戦前から文士たちの溜まり場として知られています。太宰治、坂口安吾、織田作之助、佐藤春夫などが通い、酒を飲みながら文学や時代について語り合った場所でした。店内には当時の文豪たちの写真も多く残されており、太宰や安吾がカウンターに並んで座る貴重な記録写真も伝わっています。銀座は戦災で大きな被害を受けましたが、ルパンは奇跡的に焼失を免れ、戦後も作家や編集者が集う場所として存続しました。現在も同じ場所で営業を続けており、昭和の文壇文化を今に伝える数少ない酒場として知られています。
-
さとうせんせい佐藤先生
佐藤春夫(1892–1964)は、和歌山県新宮出身の詩人・小説家で、大正から昭和にかけて日本文学の中心で活躍した作家です。詩・小説・評論・翻訳と幅広く手がけ、初期作品『田園の憂鬱』(1919)は、日本近代文学における象徴的な青春小説として知られています。幻想的で耽美的な文体を持つ一方、中国文化や古典文学への造詣も深く、魯迅など中国文学の紹介にも関わりました。若い作家の才能を見抜く目でも知られ、文壇では「兄貴分」のような存在でした。詩人としても評価が高く、抒情的な日本語の美しさを追求した作風は、近代詩から戦後文学へと続く流れの中で大きな影響を与えたとされています。
-
あの“しもやまじけん”にくびつっこむきか? しょうきか?あの“下山事件”に首突っ込む気か? 正気か?
下山事件とは、1949年(昭和24年)7月、国鉄(現在のJR)の初代総裁・下山定則が失踪し、翌日、常磐線の線路上で轢死体となって発見された事件です。当時、国鉄ではGHQの占領政策のもとで約10万人規模の人員整理(解雇)が進められており、労働組合との対立が激化していました。そのさなかに起きたため、事件は単なる事故ではなく「自殺か他殺か」をめぐる大論争となります。警察は当初自殺の可能性を示しましたが、他殺説も根強く、政治・労働運動・占領政策まで絡む戦後最大級の謎の一つとされました。同時期には三鷹事件、松川事件という鉄道関連の大事件も起こり、戦後日本の混乱を象徴する事件群として語られています。真相は現在も確定していません。
-
それが、おれたちのふくしゅうだからなそれが、俺たちの復讐だからな
坂口安吾にとって、戦後の文学とは「戦争で歪められた人間を取り戻す行為」でした。代表的評論『堕落論』(1946)で安吾は、戦時中に称揚された忠義・武士道・国家精神といった価値観を「虚構」と断じ、人間はむしろ欲望や弱さをさらした“堕落”の地点から出発すべきだと主張します。戦争によって多くの命が消費された現実を前に、文学ができる唯一の抵抗は「人間の本当の姿を書くこと」だと考えました。ここで安吾が言う「復讐」とは暴力ではなく、国家や時代が押しつけた偽りの道徳に対し、作家が言葉で真実を暴き続ける行為を指します。書くことそのものが、戦争と虚偽への復讐だという思想です。
