太宰治と檀一雄のバディ探偵ミステリー
第五章

被害者を辿って

主要人物

第三話 小雨の夜①

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檀 一雄

細い雨が降っていた。

足立区の五反野。荒川のそば、畑や低い民家の点在する一角に、末広旅館は静かに建っていた。
遺体が発見された線路の近くにあることを聞きつけ、太宰と二人でここを訪れたのは、晩夏の夕暮れだった。線路を滑るように通り過ぎていく列車の音が、どこか遠くで鈍く響いていた。

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「……ここが、末広旅館。下山総裁が“休憩”した場所だ」

俺が呟くと、傘もささずに立っていた太宰が、旅館の看板を見上げて、ぼそりと漏らした。

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太宰 治

「ここで姿を見かけたって証言したのが、あの女将さんだな。——ずいぶんのんびりした声で、ね。証言のわりに、記憶がふわふわしてる気がするんだよ」

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檀 一雄

俺は戸を引いて、中に声をかけた。

「失礼します」

引き戸の奥から、間の抜けたような女将の声が返ってきた。

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女将

「はーい……お昼寝ですか? お部屋、空いてますよ」

引き戸の奥から女将の声が転がってくる。

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檀 一雄

「いえ、宿泊ではなく……少しだけ、下山さんのことでお話を伺いたいんです」

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女将

「あらまあ、そうでしたか。警察の方? それとも新聞社さん?」

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檀 一雄

「いえ。下山の親戚の者なんですが」

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女将

「まあまあ! このたびは、御愁傷様でございました」

するとすぐ、横から太宰が声を潜めて囁く。

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太宰 治

「──調子が出てきたな。いいぞ、いけいけ」

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檀 一雄

俺は苦笑を噛み殺しながら、さらに尋ねた。

「下山さんがいらっしゃる前日って、どんなお客さんが?」

女将は戸惑ったように笑って、奥に引っ込んでいった。

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女将

「え、えーと……ちょっと帳簿見てきますね」

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檀 一雄

ふたりきりになった玄関先。太宰が俺の耳元に近づいて、声を潜める。

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太宰 治

「……あの証言、嘘だな。女将は西新井警察署に“下山似の男が靴べらを使わなかった”なんて、どうでもいい細部を覚えてるくせに、前日の宿泊者は一人も覚えてない。
——不自然だよ、どう考えても」

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檀 一雄

俺は小さく頷いた。

「証言で混乱させようとしているか……あるいは、警察とつながってるか」

太宰は唇をかすかに持ち上げた。

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太宰 治

「だな。……それで思い出した。“赤い洋墨の手紙事件”のときも、本物に似せて、偽物を紛れ込ませた手口があった。下山にも、同じことが起きてたとしたら……」

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檀 一雄

その言葉に、俺は眉をひそめる。

「……“偽の下山”を、歩かせたってことか?」

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太宰 治

「そう。“本人”じゃなく、“役職”を歩かせた。肩書きってのは、便利な仮面だ。中身は誰でもいい。見せたい奴にだけ、見せたい形で歩かせる。警察の発表は当てにならない……労組の線も、薄い。

——ってことは、別の組織が動いている」
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檀 一雄

その推理に、俺はしっかりと頷いた。

「第二章の幕が開いたな。
——“見えない組織”の謎」

太宰が軽く手を叩いた。小さな音が、湿った空気に溶けて消える。

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太宰 治

「よし、現場に戻ろう。——探偵は足で考えるものらしいからな。いや、足だけじゃ足りない。……砂利の感触、匂い、黙ってる空気の温度……そういうものでしか、真相には近づけない」

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檀 一雄

旅館を出ようとしたとき、ふと俺は視線の端に異物を感じた。
車。黒塗りの、場違いな高級車が、旅館の前に止まっていたのだ。

ここまでのおさらい

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    檀 一雄

    だん かずお

    下山の親戚を装って旅館の女将に聞き込みをし、事件の背後にある「見えない組織の謎」の存在を確信した。

  • 太宰 治サムネイル

    太宰 治

    だざいおさむ

    女将の不自然な証言から、何者かが「偽の下山」を歩かせたと推理し、警察や労組とは別の組織が動いていると推理した。

ここまでの用語解説

  • 足立区の五反野サムネイル
    あだちくのごたんの足立区の五反野

    五反野(ごたんの)は、現在の東京都足立区中央部、東武伊勢崎線の五反野駅周辺にあたる地域です。下山事件当時、この一帯は住宅地というより、畑や空き地、小規模な工場や倉庫が混在する半農半工の地域でした。荒川にも近く、物資の運搬や工業に適した立地である一方、夜は街灯も少なく、見通しの悪い場所が多かったとされています。作中に登場する末広旅館も、この五反野周辺に実在したとされ、下山が立ち寄った可能性のある地点の一つとして証言が残っています。現在は再開発が進み、住宅や商店が立ち並ぶ下町的な街並みへと変化していますが、当時は事件の舞台として不気味なほど静かな“空白地帯”のような場所だったのです。

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    ふしぜんだよ、どうかんがえても不自然だよ、どう考えても

    下山事件では、末広旅館の女将による証言など、行動の細部に関する具体的な記述が残されています。一方で、当時の記録には証言同士の食い違いや曖昧さも見られ、後年の研究では「細部だけが妙に具体的である点」に違和感を指摘する声もあります。ただし、それが誘導や改変によるものかどうかは確定しておらず、現在でも評価は分かれています。こうした証言の揺らぎ自体が、下山事件の謎を深める要因の一つとされています。

  • No Image
    ……“にせのしもやま”を、あるかせたってことか?……“偽の下山”を、歩かせたってことか?

    下山事件では、三越での行動や各所の目撃証言に食い違いが多く、「同一人物の足取りとしては不自然ではないか」という指摘が早くからなされています。記者の矢田喜美雄や作家の松本清張も、こうした矛盾に注目し、「足取りが意図的に作られた可能性」を示唆しました。そのため後年には、別人が行動していたのではないかという推測も語られますが、決定的な証拠はなく、あくまで仮説の一つにとどまっています。