太宰治。戦闘、開始。
主要人物
太宰 治
声/岡本信彦
檀 一雄
坂口安吾
第二話 戦闘、開始。
檀 一雄
——今日は、訪ねてくる人が多かった。
下山事件の依頼、太宰との再会、安吾の見舞い……
変わらぬ部屋に、変わりゆく風が吹き込んできた。
……たった一歩でも、暗闇から踏み出せるだけで、人間は変われる。
そんな気がした、久しぶりの一日だった。
列車の音が、どこかで聞こえていた。遠く、低く、体の芯に這い寄るように響いていた。
空気の匂いが変わった。焦げた鉄と湿気の混じったにおいが、鼻先をかすめた。
俺たちは常磐線沿いの、あの場所に立っていた。
下山事件の現場——かつて、あの男の命が潰えた場所に。
太宰が、ふと肩越しに振り返らずに言った。
太宰 治
「七月六日未明。——この線路上で、下山総裁の遺体が見つかった。その夜は、大雨だったらしいね」
まるで、詩の冒頭のようだった。
彼の声は軽く、そしてひどく、遠い。
檀 一雄
「……少し歩いてみようか」
俺はそう言って、先に歩き出した。
砂利が靴の下で乾いた音を立てた。
その響きが、なぜか腹の底に沈んだ。
しばらく沈黙が続いたあと、太宰がぽつりと呟いた。
太宰 治
「自殺にせよ、他殺にせよ——問題は、彼がどの方角から来たか。何を思って、どう歩いたのか。それが鍵だね」
言葉の調子は、いつもと同じだった。
けれど、その目だけが違っていた。
線路の向こう側を、見えないものでも追うように眺めていた。
檀 一雄
「倉庫と工場に囲まれた場所だ。……夜は相当に見通しが悪いな」
俺がそう言うと、太宰は片手をポケットに突っ込んだまま、肩をすくめた。
太宰 治
「電灯の並びもバラバラだ。真夜中なら……ほとんど闇だね。音があっても、姿はない。風は吹くけど、足跡は残らない。そういう場所なんだよ、ここは。何かを“見なかった”ふりが、できてしまう場所だ」
「事件の夜は土砂降りだったから、遺留品もほとんど流されてる。そりゃ警察も混乱するはずだ」
檀 一雄
「今度は……学生の頃の探偵ごっこ、ではすまないな」
俺がそう言うと、太宰は立ち止まり、指先で軽く頬を掻いた。
太宰 治
「……うん、あの頃とは、もう違う。僕たちは、ただの文学青年じゃない。中原と喧嘩して、おでんを投げて、竹輪で戦ってた時代は、もう終わった。今の僕たちは……うまく言えないけど、“死”の側に立っている気がするよ。書くというのは、つまり、そういうことだろ?」
檀 一雄
「太宰……」
太宰 治
「……ん?」
檀 一雄
「いや、なんでもない。……それより、このあたり、資料と微妙に違う気がする」
ポケットから矢田の資料を取り出し、ページをめくった。
地図の線と、今自分が立っている場所が、少しだけズレていた。
太宰 治
「矢田の資料は信用できるよ。でも、この資料、出所が混ざってる。警察の報告なんて、都合のいいように“整えられてる”場合がほとんどだ。ねじ曲げられた事実ってやつは、誰の筆でも簡単に書ける。でも、だからこそ、それを“読む”役が必要なんだよ。僕たちのようなね、因果な商売の者が」
檀 一雄
「……だから、探偵が必要だというわけか」
太宰は大きく息を吸い、ひと呼吸置いてから静かに言った。
太宰 治
「うん。檀、この事件は、“物語”として捉えてみよう。——下山定則という、一人の男の“終わりの物語”として」
彼の声には、不思議な温度があった。
真実に触れたいという願いと、触れてしまったら壊れてしまいそうなものへの、無意識の怖れ。
檀 一雄
「物語……」
太宰 治
「そう。“作家”として考えるんだ。第一章、どう始める? 下山という主人公は、どこから歩き出した?風の強い夜だったのか、傘は持っていたのか、列車の音に何を思ったのか。それを書かなきゃ、読者は納得しない。何より、自分が納得しない」
檀 一雄
「……まだ、書き出しの言葉が見つからない」
俺は、地面を見つめた。
暗く沈んだ砂利のあいだから、何かが見えそうな気がしていた。
けれど、それは、言葉になるにはまだ遠かった。
太宰は少し笑って、まるで子供に種明かしをするように言った。
太宰 治
「じゃあ、僕が書くよ。——まずは、現場に来るまでの下山の足取り。何を考え、どう歩いたか。その心理を追って、第一の検証を始めよう。ほら、ペンを持て、檀。書けなくたっていい。歩ければ、書ける。歩ければ、何かには、なる」
そして、彼は足元の砂利をひとつつまみ、ぽんと放り投げて言った。
「……戦闘、開始。だ」
話一覧
ここまでのおさらい
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檀 一雄
だん かずお下山事件の現場を訪れ、学生の頃の「探偵ごっこ」では済まされない事態だと実感した。
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太宰 治
だざいおさむ現場を観察し、作家として下山の心理や足取りを追うべきだと提案した。
ここまでの用語解説
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こげたてつとしっけのまじったにおい焦げた鉄と湿気の混じったにおい
昭和二十年代の鉄道は、まだ蒸気機関車が主力でした。そのため線路沿いには、現代の電車ではほとんど感じられない独特の匂いが漂っていました。まず蒸気機関車が燃やす石炭の煤と煙の匂い。さらに車輪とレールが擦れることで生じる鉄の焼けたような匂い。そして線路の枕木に染み込ませてある防腐剤クレオソート(石炭由来の油)の強い油臭が混ざります。これに蒸気の湿気と雨の匂いが重なると、鉄道特有の「焦げた鉄と油と湿気」が入り混じった空気になります。戦後の鉄道現場を歩いた人々の回想にも、この煤と油の重たい匂いはしばしば登場し、蒸気機関車時代の鉄道風景を象徴する感覚として語られています。
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そうことこうじょうにかこまれたばしょだ倉庫と工場に囲まれた場所だ
下山事件の現場となった常磐線沿線(足立区・五反野周辺)は、当時まだ現在のような住宅地ではなく、工場や倉庫、空き地が混在する半工業地帯でした。荒川や隅田川に近く、運搬の便が良かったため、戦前から小規模な町工場や資材置き場が点在していました。戦後は復興需要でさらに工場が増え、木材置き場、鉄工所、機械修理工場などが線路沿いに広がっていたといわれます。街灯は少なく、夜になると倉庫の壁や資材の影が重なり、見通しは極めて悪かったと当時の証言にも残っています。さらに事件当日は激しい雨で足跡や血痕の多くが流され、現場状況の判断をいっそう難しくしました。こうした地理条件も、下山事件が「真相不明」のまま議論を呼び続ける理由の一つとされています。
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けいさつのほうこくなんて、つごうのいいように“ととのえられてる”ばあいがほとんどだ。警察の報告なんて、都合のいいように“整えられてる”場合がほとんどだ。
下山事件では、警察内部でも見解が一致していませんでした。当時の警視庁では、捜査一課が「自殺説」、一方で捜査二課や一部の捜査官が「他殺説」を強く主張していたと伝えられています。遺体の損傷状況や血痕の分布、発見場所の状況などから「列車に飛び込んだ自殺にしては不自然だ」という意見が現場から出ていたためです。しかし、占領下の政治状況や国鉄問題の影響もあり、公式発表は曖昧なまま進められました。その過程で、自殺説を補強する形で目撃証言が整理されたり、逆に他殺の可能性を示す証拠が十分に検証されなかったのではないかという指摘も後年の研究で語られています。こうした捜査の混乱と政治的圧力の疑いが、下山事件を「戦後最大級の未解決事件」と呼ばれる理由の一つになっています。
