被害者を辿って
主要人物
太宰 治
声/岡本信彦
檀 一雄
第四話 小雨の夜②
「……今の黒い車、俺たちを見ていたな」
太宰 治
「え?」
太宰が訊き返す。
檀 一雄
「旅館の前にずっと止まってた。俺たちが動いたら、車も動き出した。……あんな高級車、こんな場所に似合わない」
太宰はしばらく沈黙し、口の中で言葉を転がした。
太宰 治
「つまり、旅館を出入りする人間を、誰かが監視していると?」
檀 一雄
「“別の組織”……こっちが探す前に、向こうに見つかってたらしい。——ナンバーは、ちゃんと覚えてある」
夜が、少しだけ深くなっていた。
雨が、まだ降り続いていた。
俺たちは、再び線路に戻っていた。どこからか、電車の走る音が低く響いていた。
太宰 治
「……日が落ちると、余計に暗いな」
太宰の声は、どこか震えていた。
檀 一雄
「遺体は、九十メートルにわたって……散乱していたらしい」
太宰 治
「……むごいな」
言葉が、夜の空気に吸い込まれていった。
太宰が、俺の横顔を見て、声の調子を変えた。
太宰 治
「事件の夜も雨だった……檀? どうした?」
檀 一雄
俺は、胸の内に浮かんだ像を、言葉にするしかなかった。
「いや……遺体が散らばる光景を想像してしまってな。戦場でなら、いくらでも見てきた。けどな……当時、誰も“死んだ”なんて言わなかった。
“玉砕”とか、“名誉”とか、言葉をかぶせて、死を美化してた。でもそれは、ただの“死神の言葉”だった。……言葉が、人を殺すんだ」
太宰がそっと言った。声は優しかった。
まるで、深い湖面の底から語りかけるようだった。
太宰 治
「檀……落ち着け」
檀 一雄
俺は深く息を吸い、吐き出した。
「すまん」
電車の音が、また遠くで鳴った。
線路が夜のなかで震えていた。
太宰 治
「……今日は、戻るか?」
檀 一雄
太宰が訊いた。声は、驚くほど柔らかかった。 俺は、静かに首を横に振った。
「いや、もう少し歩きたい」
工場と倉庫が並ぶ、無機質な風景が広がっていた。
コンクリートと錆びたトタン、剥がれかけた看板。
下山が最後に見たのも、こんな景色だったのかもしれない。
——小雨が降っていた。
りつ子を見送った日も、雨だった。
事件を追いかけながら、
俺は、自分自身の過去と向き合いはじめていた。
……太宰が、いてくれてよかった。
一人で、生きていくのは、やっぱり辛い。
太宰が、空を見上げて言った。
太宰 治
「……歩いたなあ。久しぶりに、BARルパンでも顔出すか。この前、安吾が来いって言ってたんだろう?」
檀 一雄
俺は苦笑して首を横に振った。
「今は……誰と会ったところで、何も話せる気がしないな」
すると太宰は、肩をすくめて言った。
まるで、何気ないように見せて、ほんとうは、少しだけ切実に。
太宰 治
「——話すことなんて、なくたっていいんだよ。黙ってるより、声にしてみる。そうするとさ、不意に、思ってもみなかった“切り口”が転がってくることがある。
……物語も、人生も、そんなもんだろ?」
言葉の後ろに、ため息のような風がついていた。
ここまでのおさらい
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檀 一雄
だん かずお夜の線路で下山事件の悲惨な現場を想像し、戦場でのトラウマがフラッシュバックした。
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太宰 治
だざいおさむトラウマに苦しむ檀をなだめ、気分を変えさせるためにBARルパンへと誘った。
ここまでの用語解説
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……ことばが、ひとをころすんだ……言葉が、人を殺すんだ
戦時中、日本では死や敗北はそのまま語られず、別の言葉に置き換えられて伝えられていました。たとえば、敗北は「転進」、全滅は「玉砕」と表現されました。これは1941年の戦陣訓にある「生きて虜囚の辱を受けず」という思想とも結びつき、降伏より死を尊ぶ価値観を広めました。大本営発表では実際の損害や状況がぼかされ、言葉によって現実がやわらげられていたのです。こうした表現は、死の苦しさや悲惨さを覆い隠し、「名誉ある死」というイメージを人々に植え付けました。檀の言う「死神の言葉」とは、まさに人の命の実態を遠ざけてしまう、こうした言語の力を指しています。
