被害者を辿って
下山事件調査のため、下山総裁が立ち寄った場所に訪れて聞き込みをする太宰と檀。
証言を集めていく中で次第に事件の全容が明かされていく——。
主要人物
太宰 治
声/岡本信彦
檀 一雄
第一話 聞き込み
檀 一雄
日本橋の三越前は、いつになく騒がしかった。
戦後の混乱も少しずつ落ち着きを見せはじめた東京の街に、人々の足音と声が交錯していた。
通りを行き交う群れの中に、俺と太宰は立っていた。
「下山総裁が失踪した当日の朝—— いくつかの用事を済ませた後、午前九時半ごろ、この三越に入ったらしい。そして、そのまま姿を消した」
俺はメモ帳を開きながらそう言った。
太宰は首を少し傾け、三越の建物をじっと見上げていた。
まるで、それ自体が“物語の舞台”であるかのように。
太宰 治
「……その日は、午前九時に局長会議。十一時にはGHQの労働課長と面談。どれも国鉄にとっては重要案件だ。……なのに、それをすっぽかして百貨店へ?」
声の調子は柔らかいが、言葉の裏には鋭さが潜んでいる。太宰の“疑念”は、いつも曖昧な微笑みをまとって現れる。
「どう考えても、私用とは思えないな。……誰かに呼び出されたと見るべきか」
檀 一雄
「だろうな。“会いに行った”んじゃなく、“呼び出された”。呼び出した相手が鍵だ。
……中に入ってみよう」
三越の中は、外の喧噪とはまるで違う世界だった。
柔らかい絨毯、重厚な壁、丁寧に並べられた商品と、視線を忙しなく動かす客たち。その雑多さが、逆に情報の影を曖昧にしていた。
「広いな……構造も入り組んでる。目撃証言が曖昧なのも、無理はないか」
太宰はしばらくきょろきょろと周囲を眺めた後、小さく肩をすくめて言った。
太宰 治
「僕、こういう場所あんまり来ないけど……意外と落ち着くな。人の群れに紛れてると、自分のことを考えなくて済む。僕という“煩わしい男”を、一時的に紛失できる気がするよ」
檀 一雄
俺は笑いながら言った。
「探偵の目で見れば、物に夢中な人間は証人になりにくい。……つまり、目撃証言は薄いってことだ」
太宰が口の端を上げる。
太宰 治
「なるほど。——ところで、国鉄は正午には“失踪”を認めて、警察に連絡してる。対応が早すぎると思わないか?」
檀 一雄
俺は眉をひそめた。
「……つまり、下山が“いつ消えてもおかしくない状態”にあったと、周囲は察していた」
太宰 治
「国鉄内部、相当荒れてたんだな。組合との対立、解雇問題、GHQとの軋轢……探偵小説なら、誰が犯人でもおかしくない状況だ」
太宰の声は、どこか愉しそうですらあった。
現実の不条理を戯れのように笑いながら、しかし、その実、どこよりも本気で眺めている。
それが太宰という男だった。
「この後の足取り、次は労働組合だな。直接話を聞こう」
組合事務所は、怒声とざわめきが交差する混乱の渦中にあった。
狭い受付の奥で、男たちが揉めている声が飛び交っている。
檀 一雄
「失礼します。こちらが、組合の事務所でしょうか」
俺が控えめに声をかけると、受付の若い女性が、眉をぴくりと動かした。目は鋭い。警戒心という名の鎧を着ていた。
受付の若い女性
「警察ですか? それとも記者さん?……申し訳ありませんが、今は取材対応は一切お断りしています」
檀 一雄
その答えが来る前に、俺は軽く笑って、少しだけ声を落とした。
「いえ、そういうわけでは。私は、下山の……」
そこへ、背後から太宰がすっと首を差し出してきた。まるで悪戯を仕掛ける小学生のような表情で、俺の耳元に声を落とす。
太宰 治
「──親戚、親戚、遠い、かなり遠いけど、親戚ってことで」
檀 一雄
俺は咄嗟に、太宰の小芝居をなぞる。
「……下山の……まあ、遠い親戚のようなものでして。少しだけ、お話を聞かせていただければ」
女の表情が、ほんのわずかに緩む。警戒は残っていたが、「遺族」というワードには、まだ効力があるらしい。
受付の若い女性
「そうでしたか……このたびは、なんとも……。皆、下山さんにはお世話になってました」
檀 一雄
「だからこそ、真実が知りたくて。……正直に申し上げると、世間では“解雇された組合員の逆恨み”という見方があるようで」
そのとき、太宰が、背後から静かに声を差し挟んだ。
太宰 治
「実際のところは?」
受付の女性は、それを無視するようにはっきりと答えた。
受付の若い女性
「それは、絶対に違います。たしかに労働条件や解雇で揉めていたのは事実ですが、下山さんは部下にも同期にも、本当に慕われていた。国鉄職員は、みんな同じスタートなんです。運転士から始まって、整備や幹部になっていく。下山さんは、その道を通ってきた一人でした。“同じ釜の飯を食った仲間だ”って、よく口にしてましたよ」
檀 一雄
俺は一歩踏み込んだ。
「共産党や、過激な思想に傾く者もいたんでしょう?」
受付の若い女性
「中にはいました。けれど、下山さんは、そういう人たちにも誠実に接していたと聞いています。吉田首相に“解雇反対”を訴えてくれたことは、組合の中でも有名です」
太宰が、珍しく声を少し上げて感嘆した。
太宰 治
「人格者だったんだな」
檀 一雄
俺は頷きながら言った。
「……子どもの頃から、鉄道が好きだったそうですね?」
女性はようやく微笑みを見せた。
受付の若い女性
「駅名や時刻表を全部覚えてたそうです。文字どおり、鉄道少年がそのまま総裁になったような人でしたよ」
檀 一雄
事務所を出て、冷たい風が顔に当たった。
俺は深く息を吐き、振り返らずに言った。
「聞いてみると、随分印象が違ったな……」
太宰は両手をポケットに突っ込んだまま、笑った。
太宰 治
「警察相手じゃ、本音は話さないだろう。“親戚”という仮面、使って正解だったな。仮面ってのはな、真実に近づくための道具なんだよ。矛盾してるけど、それが人間さ」
檀 一雄
「正直、組合側の逆恨みだと思ってた。でも、今の話を聞く限り、それは違うな」
太宰 治
「なら、次だ。——五反野駅の近く、末広旅館。警察の資料によると、あそこで下山は休憩を取る姿を目撃されている」
檀 一雄
俺は、小さく頷いた。
「そうだな、目撃情報の裏を取りに行こう」
ここまでのおさらい
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太宰 治
だざいおさむ失踪直前の下山の不自然な行動を「誰かに呼び出された」からだと推理し、聞き込み調査では檀に耳打ちをして手助けした。
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檀 一雄
だん かずお下山の足取りを追って聞き込みをし、組合側の逆恨みという当初の予想を改め、次の目的地へと向かった。
ここまでの用語解説
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しもやまそうさいがしっそうしたとうじつのあさ—— いくつかのようじをすませたあと、ごぜんくじはんごろ、このみつこしにはいったらしい。下山総裁が失踪した当日の朝—— いくつかの用事を済ませた後、午前九時半ごろ、この三越に入ったらしい。
Kakidai - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=73189424による
史実でも、下山定則は失踪当日の1949年7月5日朝、予定外の行動として日本橋三越に立ち寄っています。公用車で移動中、突然「三越に寄る」と運転手に指示し、店内に入ったまま姿を消しました。この行動は事前のスケジュールにはなく、当時から大きな謎とされています。下山はその日、国鉄の重要会議やGHQとの面談を控えており、百貨店に立ち寄る合理的な理由は確認されていません。そのため「誰かと会う約束があったのではないか」「呼び出されたのではないか」といった他殺説の重要な根拠の一つとされてきました。本作の描写は、この史実の不自然な行動を踏まえています。
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よしだしゅしょうに"かいこはんたい"をうったえてくれた吉田首相に“解雇反対”を訴えてくれた
下山定則は国鉄の叩き上げで、現場出身の数少ないトップでした。若い頃から鉄道に関わり、運転士や現場の仕事を理解したうえで昇進した人物で、職員との距離が近く「同じ釜の飯を食った仲間」という意識を持っていたとされます。1949年、GHQの緊縮政策により国鉄で大規模な人員整理が求められた際、下山は現場の混乱や職員の生活を強く懸念し、吉田茂首相に対して慎重な対応を求めたとする証言が残っています。最終的には実施責任者となりましたが、その過程には現場と政策の間での葛藤がありました。単なる官僚ではなく、現場に根ざした視点を持っていたことが、彼の人望の一因とされています。
