BARルパンで。
主要人物
太宰 治
声/岡本信彦
檀 一雄
佐藤春夫
坂口安吾
第三話 BARルパン①
檀 一雄
夜の雨は、まだどこか街角に残っていた。
乾きかけた舗道に、ところどころ雨粒の記憶が残っていて、ネオンの光を鈍く返していた。
俺は太宰と連れ立って、銀座の裏手にあるBARルパンへ向かった。戦前から文士たちがたむろしていた、いわば我々にとっての“古巣”だった。
変わったようで、何も変わっていない。ドアの質感も、灯りの色も、静かに流れるジャズさえも。
BARルパンの扉を開けたとき、懐かしい鈴の音が鳴った。
細く降る小雨のせいで、コートの裾がじっとりと重たかった。
それでも、あの店の扉をくぐると、空気の温度が少し変わったように思えた。
佐藤春夫
「おお、来た来た。噂をすればってやつだな!」
奥の席から佐藤春夫の声が響く。
檀 一雄
「佐藤先生! 安吾!」
俺が声をかけると、カウンターにいた坂口安吾が振り返ってにやりと笑った。
坂口安吾
「来たか……なんだかんだで、生き延びる術は覚えたみたいだな」
太宰 治
「僕の話なんて、してたのか……全く」
太宰はいつもの特等席に腰掛けながら、隣で拗ねたように呟いた。
坂口安吾
「ちょうど今、太宰の話になってたんだ。
あの芥川賞懇願の手紙の話」
安吾が笑いながら言った。
太宰は肩をすくめたように言う。
太宰 治
「やめてくれよ……あれは真剣だったんだ」
佐藤春夫
「ああ、必死だったもんな。太宰の顔、真っ青だったぞ」
そう返すと、太宰はわずかに俯きながら言った。
太宰 治
「精神的にも、金銭的にも……佐藤先生だけが頼りだったんです」
佐藤先生が、ふっと目尻を下げて微笑んだ。
佐藤春夫
「太宰はな、賞なんかなくても、大丈夫だと思ってた。俺は、どこかでちゃんと立ち上がると信じてたんだよ。結果、『斜陽』は戦後文学の“顔”になった。見事だったよな」
太宰 治
「やめてくれ…全く」
太宰が顔を逸らす。どこか照れくさそうで、嬉しそうでもあった。
そんな彼をよそに、安吾が皮肉混じりに続ける。
坂口安吾
「“斜陽族”なんて言葉まで生まれたもんな。若者たちが、太宰の小説を自分の鏡にしてる。それだけ人の心に届いたってことだ」
佐藤先生も頷いた。
佐藤春夫
「安吾の『堕落論』だって、ずいぶん響いたよ」
坂口安吾
「『斜陽』の母親の姿に、俺は戦後の日本の疲れを見た気がしますよ。……あれは、あいつの“告白”だ。でも、聞いてるうちに、こっちまで赦される気がした」
太宰は、静かに目を伏せ、小さな声で言った。
太宰 治
「……自分の話は、どうにも耐えられないな。ちょっと席外すよ」
檀 一雄
「太宰?」
俺は椅子から身を起こしかけたが、佐藤先生が穏やかに言った。
佐藤春夫
「……そうだよ。太宰だよ」
檀 一雄
「いえ、急に立ったから……でも、太宰らしいですね」
俺はそう答えた。
太宰の姿が、見えなくなっていた。
坂口安吾
「“走れメロス”だってそうだった。太宰の人生がにじんでる」
安吾が続けた。
「友人を人質にするって発想は、なかなか出ないぞ!」
檀 一雄
そしてふっと思い出したように、俺に顔を向けた。
坂口安吾
「檀、お前がその“人質”だったって噂、本当か?」
檀 一雄
「ええ、事実です。熱海で僕を宿に残して、太宰はちゃっかり東京に戻った」
坂口安吾
「で、戻った先が井伏先生の家で、将棋指してたとか?」
檀 一雄
「それも、本当。……それであいつ言ったんですよ、“待つ身が辛いかね? 待たせる身が辛いかね?”って」
佐藤先生は腹を抱えて笑った。
佐藤春夫
「傑作だなあ、まったく!」
けれど、安吾の顔は少しだけ曇っていた。
坂口安吾
「太宰ってやつは、いつも悲劇を探してるようだった。人を置き去りにして、その先に何が起こるかを想像してる。そして、自分が赦される未来を、どこかで夢見てる。不良少年のまま、大人になったような男だ。
——でもな、不良のくせに、どこかキリストみたいに“赦し”を求めてる」
「太宰の作品ってのは、人間の“弱さ”が、妙にリアルなんだよな。だから、読む人間も、自分を映すように感じるのかもしれない」
佐藤先生がしみじみと語る。
佐藤春夫
「俺はね、あいつの“弱さをさらす強さ”が好きだった。堕ちることを恐れずに、それを書いてた。……少し、羨ましいよ」
「太宰は、あれはもう“別格”だよ。百年経っても、“太宰治”の名前は、残るんじゃないか」
檀 一雄
「そう思います」
俺ははっきりとそう答えた。
坂口安吾
「……出た、太宰信者」
安吾がにやりと笑う。
檀 一雄
「心のどこかで、いつも求めてしまうんです。
だって、いい作家じゃないですか」
安吾がグラスを傾けながら言った。
坂口安吾
「そういや、檀は太宰と昔“探偵ごっこ”してたな」
檀 一雄
「ええ。その流れで、今日ルパンに来たんです。何か、新しい情報が聞けるかもしれないと思って」
坂口安吾
「情報?」
檀 一雄
「実は……下山事件を、調べてまして」
佐藤先生が少し眉を上げた。
話一覧
ここまでのおさらい
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檀 一雄
だん かずお太宰と共にBARルパンを訪れ、安吾や佐藤春夫と合流した。下山事件の調査を打ち明け、二人の忠告を受けつつも事件を追う決意を固めた。
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太宰 治
だざいおさむ檀と共にルパンを訪れるが、過去の芥川賞懇願の手紙や熱海で檀を人質にした事件の話題でいじられ、途中で席を外してしまった。
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坂口安吾
さかぐちあんごルパンに現れた二人を迎え、太宰の過去をからかって笑う。下山事件を追う檀に強く警告するが、決意の固さを知り見張り役としての同行を申し出た。
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佐藤春夫
さとうはるお太宰の『斜陽』の成功を称え、弱さをさらけ出す作家としての姿勢を評価した。下山事件の調査に踏み込もうとする檀に対し、闇の深さを指摘して深入りしないよう忠告した。
ここまでの用語解説
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いつものとくとうせきいつもの特等席
太宰治とBARルパンといえば、写真家・林忠彦が撮影した有名な一枚が知られています。椅子に足を投げ出し、気だるそうに笑う太宰の写真で、戦後文学を象徴する肖像として何度も引用されてきました。実はこの写真、元の構図では右端に坂口安吾の背中が写っており、後年トリミングされたものが広く流通しています。撮影は1946年11月、改造社主催の座談会「歓楽極まりて哀情多し」の後。太宰に「織田作ばかり撮ってないで、俺も撮れよ」と言われた林忠彦は、残り一個だったフラッシュバルブを使い、狭い店内で引きが取れず、トイレのドアを開け、便器にまたがるような姿勢で夢中になって撮影したと伝えられています。この“いつもの席”は、文学青年たちにとって、今もなお太宰が座っていそうな場所として語り継がれているのです。
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『しゃよう』はせんごぶんがくの“かお”になった。『斜陽』は戦後文学の“顔”になった。
太宰治の『斜陽』(1947)は、没落していく旧華族の家族を描いた戦後文学の代表作です。主人公・かず子と母、弟を通して、戦後の価値観の崩壊と、新しい時代へ向かう不安と希望が描かれています。特に、没落していく上流階級の姿は、戦後の社会変動を象徴するものとして広く共感を呼びました。この作品のヒットにより、「斜陽族」という言葉が生まれ、旧来の特権を失い衰退していく人々や、そのような生活様式を指す流行語となりました。『斜陽』は単なる家族の物語にとどまらず、戦後日本そのものの姿を映し出した作品として、太宰文学の代表作の一つとされています。
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ゆうじんをひとじちにするってはっそうは、なかなかでないぞ!友人を人質にするって発想は、なかなか出ないぞ!
この台詞は、太宰治と檀一雄の実体験である通称「熱海事件」に由来します。太宰は熱海の宿に滞在中、渡された金で飲食や遊興にふけり、宿代を払えない状況に陥りました。そして「すぐ戻る」と言い残したまま東京へ帰り、檀を宿に残す形になります。いわば檀は宿に“人質”として置かれた格好でした。後日、檀が取り立て屋とともに東京へ向かうと、太宰は何事もなかったかのように過ごしていたといいます。この逸話は『走れメロス』のモチーフにも通じると共に、太宰の無頼ぶりと人間関係の歪さを象徴するエピソードとして知られています。
